長嶋は、一九七四年十一月十四日、ジャイアンツ=ドラゴンズの最終戦(於後楽園球場)を最後に引退した。デビュー戦と違って、この試合の打席の結果は何一つ語られることはなく、ただあの試合後の引退式だけがファンの口に上る。長嶋の構築したエピソードの一つの頂点はあの引退式にあるように思われる。長嶋はセレモニーで、「わが巨人軍は永久に不滅です」と叫び、その後、外野スタンドの前を涙を流しながら、ファンに別れを表わした。過剰な言葉をかき消し続けた長嶋が発したその言葉は何を意味しているのだろうか? 楽しさを示し続けた長嶋の涙は一体何だったのだろうか? メロドラマを拒否し続けた長嶋は最後の最後になってそれを演じてしまったのだろうか? 長嶋の泣く姿を鑑賞し表わすだけでは、長嶋によって変革されたわれわれの意識それ自体を読みとることはできない。

 近藤唯之は、『天才の悲しみ−長島茂雄』において、長嶋の「悲しみ」について次のように述べている。

 11月2日、後楽園球場で第7戦が行われた。巨人は3連敗のあと、3連勝だから、乗りに乗っていた。

 さて1対1の同点で迎えた六回、巨人はライト投手の中越え二塁打などで2対1と逆転、なお一死満塁の場面に持ち込んだ。このとき六番・淡口憲治右翼手は足立の初球、真ん中低めに沈むボールにバットを出し、投ゴロ併殺に終わった。

 その瞬間における、長島監督の表情を忘れはしない。顔をゆがめ、右足スパイクで地面をけり、まるでサヨナラ満塁本塁打を食ったような一瞬だった。

 淡口は併殺だったとはいえ、2対1と逆転したのは本当である。なぜ、あれほど悲しむのか。私は長島監督のゼスチャーはオーバーすぎると思った。

 ところが3分後の七回一死後、一塁走者・ウィリアムス右翼手をおき、六番・森本潔三塁手は左翼席逆転本塁打をぶっとばした。天才というのか、ひらめきというのか、淡口が併殺打になった瞬間、長島監督はすでに3分先の再逆転を予想していたのかも知れない。私はそこに天才・長島の悲しみを見たと思った。

 長嶋は、つめ将棋が素人やそれ程熟達していないものにとってはまだ途中に見えてもすでに終わっているように、野球において先がほぼ完全に読めており、すべてを認識していた。野球はパターンや構造の反復の中にあり、すべては繰り返しにすぎない。だが、その繰り返しはそれぞれ単独的なものである。長嶋の「悲しみ」は出来事の悲惨さではなく、そうした認識、悲劇のヴィジョンに関わっている。繰り返ししかないと認識し、先が読めるにもかかわらず、その一回一回は二度と戻ってこないと経験しつつ生きることは悲劇的である。長嶋は、すべては結果ではないから、悲劇を意欲的に反復する。長嶋の涙はこの反復を認識することから流れ出たのである。

 野村克也による「ID野球」提唱以降、日本のプロ野球界では、従来の決定論に代わって、確率論が支配的である。しかし、「あの一球が大きかった」とか、「あのプレーが流れを左右した」、「あのゲームでシーズンが決まった」という言い方がよくされるように、プロ野球を考える場合、むしろ、カオス理論や複雑系による認識の方がふさわしい。そもそもスポーツは初期条件に敏感に依存する。十九世紀末、最初にカオス性の運動に気がついたアンリ・ポアンカレは、『科学と方法』において、「われわれの目をかすめるような極めて小さな原因が、無視できないほど大きな効果を生むことがある。この時、その効果は偶然に起こったと言われる」と述べている。彼は、三つの天体の運動を調べる「三体問題」と呼ばれる天文学の問題を考えている際に、一九六〇年代に「カオス」と命名される運動を発見したのだ。複雑系は、哲学的には、ポアンカレとほぼ同時期に研究を開始していた数学出身の哲学者E・フッサールの「現象学」に類似している。長嶋は、先のプレーに、「今日北京でチョウガ羽を動かして空気をそよがせたら、来月ニューヨークで嵐が起こる」という比喩で説明される「バタフライ効果」を見出したために、「悲しむ」。長嶋は複雑系の認識を持って、プロ野球を見ていたのである。長嶋がかつて「カンピューター」と呼ばれていたことを思い起こすべきだろう。カオス理論や複雑系はコンピューターによって再発見され、その可能性が追及されている。「その複雑さは驚くべきもので、私自身もこの図形を引いて見せようとは思わない」(ポアンカレ『常微分方程式』)。つまり、長嶋という「カンピューター」が野球における複雑系を顕在化させたのだ。

 長嶋は引退した翌年一九七五年に、『旧約聖書』の巨人ゴリアテに由来するジャイアンツの監督に就任する。長嶋は、その際、背番号を3から90に変えた。背番号3というエピソードに別れを告げるために。その五年後の一九八〇年、長嶋は成績不振を理由に監督を解任された。長嶋の監督としてのテーマは試合に勝つこと以上に楽しさをプレーする側にも見る側にも感受させ得るかという点にあった。多くのファンはそれを求め、長嶋に声援を送っていたのである。しかし、球団は勝たなければ親会社の新聞の発行部数やテレビの視聴率が低下すると恐れていた。長嶋はルサンチマンに囚われた読売球団によって、すなわち被害者意識が転じ加害者になるというあの反転によって解任されたのである。家の中で殴られ続けた子供が、家の外でいじめっ子になってしまったり、その逆であったりするように。長嶋は勝利のみを要求している球団と、結果において、一致していた間だけ監督たり得ていたのである。

 それでも長嶋は解任されたジャイアンツを愛している。その姿を愚かしく情けないと評するものがいるが、ジャイアンツ・ファンと長嶋のジャイアンツへの関わり方は異なっている。ジャイアンツ・ファンにとってのジャイアンツはルサンチマンを晴らすことの対象にすぎない。長嶋は自分自身が現にこうしてあり、その自分を可能にしたこうでしかありえなかった現実としてジャイアンツを愛しているのである。言うまでもなく、ジャイアンツが長嶋を生み出したわけではない。長嶋は自分自身が関わり、相互作用を繰り返してきたあるがままの現実として愛しているのである。どんなに人生がそれでボロボロになったとしても、再起不能なまでのこころの傷を受けたとしても、ジャイアンツから無視され続けたとしても、どんなにそのジャイアンツが腐敗し最低になっていたとしても、愛されることが迷惑だとしても、長嶋は愛し続けるのである。「愛することと没落することとは、永遠の昔からあい呼応している。愛への意志、それは死をも意欲することである。あなたがた臆病者に、わたしはそう告げる」(『ツァラトゥストゥラ』)。愛することはルサンチマンを廃した完全な肯定を意味している。長嶋はルサンチマンに囚われている数々のプレーヤーに対して「強者」としての超人の生き方を示し、「救済」したのである。「過ぎ去った人間たちを救済し、すべての『そうであった』を、『わたしがそのように欲した』につくりかえること−−これこそわたしが救済と呼びたいものだ」(『ツァラトゥストゥラ』)。長嶋最大の救済は読売球団に対してのそれであるにもかかわらず、読売球団は長嶋が愛することによって自分たちを「救済」していることを気づいていないのである。

 長嶋は引退式で「わが巨人軍は永久に不滅です」と叫んだ。「永遠」ではなく、「永久」と言ったことに長嶋の真意がある。「永遠」は、ニーチェの永遠回帰のように、内的なものだけで限りなく運動が回帰してくることであり、「永久」は、永久機関のように、外的な働きかけのないまま限りなく運動が回帰することなど机上の空論でしかないという意味がある。長嶋があの引退式で告げたかったことは次のことである。「あなたがたはまだあなたがた自身をさがし求めなかった。そこでたまたま、わたしを見いだすことになった。信仰者とはいつもそうしたものだ。だから、信仰するといってもたいしたことはない。いま、わたしがあなたがたに求めることは、わたしを捨て、あなたがた自身を見いだせ、ということだ。そして、あなたがたがみな、わたしを知らないと言ったとき、わたしはあなたがたのところに戻ってこよう。まことに、わが兄弟よ、そのときはわたしはいまとは違った愛でもって、わたしの失われた者たちを尋ね出すだろう。いまとは違った愛をもって、あなたがたを愛するだろう」(『ツァラトゥストゥラ』)。つまり、「巨人軍」が「不滅」などは机上の空論にすぎず、「巨人軍」にとらわれるのではなく、自分自身を「見いだせ」と長嶋は言わんとしていた、すなわちあれは最高のユーモアなのである。

 ニーチェは、『ツアラトゥストゥラ』において、あの永遠の回帰について次のように語っている。

 苦痛はまたよろこびであり、呪いはまた祝福であり、夜はまた太陽なのだ、−−去る者は去るがいい! そうでないものは学ぶがいい、賢者はまた愚者だということを。

 あなたがたはかつて一つのよろこびに対して「然り」と肯定したことがあるのか? おお、わが友人たちよ、もしそうだったら、あなたがたはまたすべての嘆きに対しても「然り」と言ったわけだ。万物は鎖でつなぎあわされ、糸で貫かれ、深く愛しあっているのだ。−−

 あなたがたがかつて、ある一度のことを二度あれと欲したことがあるなら、「これは気にいった。幸福よ! 束の間よ! 瞬間よ!」と一度だけ言ったことがあるなら、あなたがたは一切が帰って来ることを欲したのだ!

 −−一切を、新たに、そして永遠に、万物を鎖でつながった、意図で貫かれた、深い愛情に結ばれたものとして、おお、そのようなものとして、あなた方はこの世を愛したのだ!

 −−あなたがた、永遠のものたちよ、世界を愛せよ! 永遠に、また不断に。そして、嘆きに向かっても「去れ、しかし帰って来い」と言うがいい。すべてのよろこびは−−永遠を欲するからだ

 ピッチングにしても、バッティングにしても、野球を支えるのは円運動であり、長嶋はこの円運動を消極的な繰り返し、すなわち惰性ではなく、積極的な繰り返し、すなわち反復へと、永遠回帰へと創造するのである。フロはこの反復による創造ができなければならない。たった一度でも生が肯定される瞬間があったなら、その「よろこび」によって世界や生を「然り」とし、「帰ってこい」と叫び得るものにする。ここでニーチェは、生き難い現実に対して働きかけるか否かだけではなく、現れてきた今ここをどのように生きるのかと問うている、すなわち苦悩や悲嘆を「反感」の病的な回路に向け、生を否定し、それを晴らすように復讐のために生きるのか、それとも苦しみを「わたしがそのように欲した」へとつくりかえて、よろこびを一切の苦しみとともに「去れ、しかし帰って来い」と健康的に肯定するのかの二者択一を提示している。長嶋の目指したものはこのニーチェの永遠回帰と同一のものであると思われる。二度目の監督就任の際に選んだ新たな背番号33は3の反芻、永遠回帰を意味するのだ。事実、長嶋は、再び、その背番号3へと回帰した。長嶋は生きられた超人である。すなわち彼自身が新しい価値の定義であり、新しい価値を創造しているのだ。

 われわれが見た日本プロ野球のピッチャーの中で最高は、先に言及した点も考慮して、江夏である。江夏のピッチングには宮嶋泰子アナの実況こそ望ましい。これはアイロニーではない。「失われた時」を求める江夏を語るには素朴な男なるものでは不可能なのだ。宮嶋泰子は「奔流のような活動の衝撃と活気を受けとめ」(『失われた時を求めて』)、比喩的な関係についてのメタ比喩性を喚起させる。この点がわからないと彼女の独特の語りを理解できなくなる。最も速い球を投げたのは山口高志であり、最も美しい球を投げたのは郭泰源である。その江夏は最も嫌な打者として王ではなく、長嶋をあげている。理由は「わからないから」だという。「王さんは、こっちが“決めた”と思った球はまず打たれない。長嶋さんは反対。やった、という球を打たれるんだなあ」。だが、長嶋はそれこそが一流投手に対する打者の知恵と断言する。「江夏級の一流投手が勝負してくるシチュエーションは、案外決まっている。自信があるからだろうね。僕はその球にヤマをかける。ウィニング・ショットを狙うほうが的中率は高いからね。それを打つのがバットマンのテクニック。狙っているからできるんです」。長嶋は、いかなる状況においても、このように新たな価値を創造する。

 長嶋は、日本語や英語、スペイン語だけでなく、既存の言語を解体し、長嶋語と呼ぶほかない新たな言語すらもつくりあげてしまう。長嶋は言語に敏感である。長嶋は、その直観力により、すべてのものに命名する。しかし、この比喩力のみに頼ることなく、長嶋は詩人としてだけではなく、散文家としての才能も発揮する。長嶋はつねに両義的である。長嶋語は、あの終わりのない永遠に続くセンテンスにより、すべてのものを飲みこむ恐るべき強度を持った肯定の言語である。さらに、男性や女性の言いまわしの区別もなくなる。一切の文法上の誤りのないその言語を耳にするだけで、誰もが真似をしてみたくなり、「しあわせ」になれるのだ。創造された新たな価値は、時が経るとともに、象徴や彫像、偶像に堕してしまいかねない。永遠回帰はこの宗教的な危険を粉砕する。長嶋に憧れることは偶像崇拝ではない。長嶋はそうした宗教的な通俗からほど遠い。あのカン高い声は聖者への哄笑を意味しているのだ。長嶋は神などではない。神はすでに死んだのである。長嶋は生まれた頃から超人だったわけではない。長嶋は、むしろ、人一倍負い目やコンプレックスを感じ、ひどくルサンチマンに囚われていた。小学生の頃は「チビ」と馬鹿にされ、中学高校時代に身長は伸びそう呼ばれなくなるものの、立教大学時代はひどい千葉訛が抜けず、それをごまかすために口癖となった「チト」と「ハア」から、「チト、ハア」というあだ名をつけられ、その訛ゆえに長嶋は合宿所にかかってきた電話に一切出ず、電話番の仕事を逃げ回っていたのである。長嶋はそうしたルサンチマンに対してある踏ん切りをつけた。ルサンチマンが大きければ大きいほど、それが転換されたとき、大いなる生の喜びとして現れる。つまり、長嶋はルサンチマンを打破しろではなく、転換せよと言っているのだ。引退式はそのメッセージにほかならないのである。

 長嶋が忘れっぽいのはあまりに有名である。それを非難するものはいない。長嶋は一切のものを忘却する。忘却はルサンチマンを発生させない力だ。忘却は、子供において、最も発揮される。ルサンチマンを持たないものはすべてを忘却する。この忘却の力は恐るべき肯定の力なのだ。

 忘却の力について、ニーチェは、『ツァラトゥストゥラ』において、精神が遂げる「三段の変化」として次のように語っている。

 わたしはあなたがたに、精神の三段の変化について語ろう。どのようにして精神が駱駝となるのか、駱駝が獅子となるのか、そして最後に獅子が幼な子になるのか、ということ。

 精神にとって多くの重いものがある。畏敬の念をそなえた、たくましく、辛抱づよい精神にとっては、多くの重いものがある。その精神のたくましさが、重いものを、もっとも重いものをと求めるのである。

 どういうものが重いものなのか? と辛抱づよい精神はたずねる。そして駱駝のようにひざを折り、たくさんの荷物を積んでもらおうとする。どういうものがもっとも重いものなのか、古い時代の英雄たちよ? と辛抱づよい精神はたずねる。わたしもそれを背負い、自分の強さを感じてよろこびたい。

 わが兄弟たちよ! なんのために精神において獅子が必要なのであろうか? 重荷を背負い、あまんじ畏敬する動物では、どうして十分でないのであろうか?

 新しい価値を創造する、−−それは獅子にもやはりできない。しかし新しい創造のための自由を手にいれること−−これは獅子の力でなければできない。

 自由を手にいれ、なすべしという義務にさえ、神聖な否定をあえてすること、わが兄弟たちよ、このためには獅子が必要なのだ。

 新しい価値を築くための権利を獲得すること−−これは辛抱づよい、畏敬をむねとする精神にとっては、思いもよらぬ恐ろしい行為である。まことに、それはかれには強奪にもひとしく、それならば強奪を常とする猛獣のすることだ。

 精神はかつては「汝なすべし」を自分の最も神聖なものとして愛した。いま精神はこの最も神聖なものも、妄想と恣意の産物にすぎぬと見ざるをえない。こうしてかれはその愛していたものからの自由を奪取するにいたる。この奪取のために獅子が必要なのである。

 しかし、わが兄弟たちよ、答えてごらん。獅子でさえできないことが、どうして幼な子にできるのだろうか? どうして奪取する獅子が、さらに幼な子にならなければならないのだろうか?

 幼な子は無垢である。忘却である。そして一つの新しいはじまりである。ひとつの遊戯である。ひとつの自力で回転する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。

 そうだ、創造の遊戯のためには、わが兄弟たちよ、聖なる肯定が必要なのだ。ここに精神は自分の意志を意志する。世界を失っていた者は自分の世界を獲得する。

 「駱駝」は「多くの重いもの」、すなわち思想上の重荷をを負い、それに「辛抱強い」精神でもって耐え、そのことによって自らの「強さ」を感じるものである。「孤独の極みの砂漠」の中、第二の変化が生じ、「駱駝」から「獅子」へと精神は移行する。「獅子」は「自由」な精神である。それは自分の背負っていた重荷がいかなるものであるかを解明・認識し、この「巨大な龍」と闘うようになるのだ。しかしながら、「最も神聖なものも、妄想と恣意の産物にすぎぬ」ことを認識する「獅子」は「新しい価値を築くための権利を獲得する」ことはできても、それを創造することは不可能である。「新しい価値」を創出するためには、「獅子」から「幼な子」へと精神はさらに第三段目の変化をする必要がある。「幼な子」は「無垢」と「忘却」の力を持っている。そして、その力によって「幼な子」は「然り」という「聖なる」言葉を持つに至るのである。「創造の遊戯」のためには、「聖なる肯定」、すなわち「然り」がなければならず、その肯定によって「自分の意志を意志する」とき、「世界を失っていた者は自分の世界を獲得する」。「幼な子」は生がどれだけ生き難いものとして現われても、にもかかわらず、過ぎ去った一切のことを「忘却」して、つねに現にある瞬間を最大限に生きようとする「無垢」に立ち返る力を持っている。「幼な子」になるとは、この「無垢」の力に立ち返ることである。「獅子」や「駱駝」はまだ反動的な評価の圏内にいるが、反動的な力を克服している「幼な子」はよいことを求め、わるいことは「忘却」する。「幼な子」は他人にとってよい子ではなく、自分にとってよい子になろうとするのである。つまり、ただたんに深く、または広く物事を認識する精神の力よりも、「生」に対する「聖なる肯定」によって「新しい価値」を創造することこそが必要なのだ。

 長嶋の思い描いてきた野球とはいたって単純で、健康的なものなのである。けれども、永遠回帰は単純再生産ではないし、「戦争は物事を単純化する」が、個々人の生の充実を目指す長嶋の単純志向は戦争とはかけはなれたものだ。「個々人の無差別と個々人の義務。人間性にさからう義務的な行為−−すばらしく教訓的な葛藤。戦争をおこなうのは『国家』ではなくて、君主ないしは大臣である。言葉でもって騙してはならない」(ニーチェ『生成の無垢』)。勝つことは野球の目的であっても、すべてではない。目的を絶対視するヘーゲル的な目的論的思考が日本のプロ野球には蔓延している。日本のプロ野球は倒錯しているのだ。一九世紀イギリスのマナーの本には次のように教えがある。「下品はいけない。しかし、下品になるまいとの努力を見せつけてしまうのもみっともない。失敗しないように、と冷や汗をかくくらいなら、失敗をした方がいい」。マナーとはタブーではなく、いささかユーモアを含んでいる。日本のプロ野球は「下品」極まりない。まったく「失敗」をしようとしないものはファシストなのだ。リダンダンシーにあふれている長嶋はこの「遠近法主義的倒錯」を批判する。長嶋は「理想」を「個々の生存をいかに肯定するか」に置いている。つまり、野球の生み出すものが現実的にさまざまな生の苦しみを支え、見るものや携わるものを楽しく健康的に生かすようにプレーすること、野球をそう育成することなのである。それは「悦ばしきスポーツ(The Gay Sports)」になろう。

 この「ゲイ・スポーツ」は、オランダのヨハン・ホイジンガがメニッポス的諷刺の遊作『ホモ・ルーデンス』において指摘した現代のスポーツが失っている「遊びの内容のなかの最高の部分、最善の部分」の回復であり、さらなる創造である。遊びは腐敗してしまった。「遊びはあまりに真面目になりすぎた」挙げ句、「真面目が遊びとなっている」。遊びは物事を多面的にする。文化の反対語が組織であり、自然や野蛮ではないように、遊びの反対語は真面目ではない。文化を創造する力は遊びである。

 遊びには愛が不可欠であるが、一三世紀のブラバンドの尼ハーデウィヒは、適切にも、愛は遊びと次のような詩を書いている。

愛こそ遊びなれ

そは何人もよくなし得ざる

よしこの遊びなせし者よくなし得ば

このわざを解する者のみぞ悩みを免れむ

 「愛こそ遊び」は「いき」、すなわち「無力・欠如・怨恨を“洗練”にすりかえるような倒錯」(柄谷行人『「いき」の構造』)を意味しない。「いき」なるものは無への意志だ。「官能性の精神化はと呼ばれる」(ニーチェ『偶像の黄昏』)が、それが遊びと文化を結びつける。と言うのも、愛によって人は「おのれの苦を、おのれの受苦能力を、罪の解釈によって礼節あるものたらしめる必要がない」(ニーチェ『反キリスト者』)からである。プロのスポーツ選手である長嶋はホイジンガの問いに完璧に答えている。ホイジンガは、あの著作の中で、日本や日本語に関しても分析しているが、われわれはそこまで好意的にしなくてもいいよと苦笑したくなる。長嶋は「笑うことによって厳粛なことを語る」(ニーチェ『ワーグナーの場合』)。この長嶋的な回復を受けとめているのは、メニッポス的諷刺の体現者、あるいはグレン・グールドの化身イチローである。メニッポス的諷刺は日本人には最も理解されない。日本人は遊びを駄目にすることにかけては最悪の存在である。遊びは子供にしかありえない。「子供の遊びと彼が呼んだものは、人間のさまざまの思想のことであった」(ヘラクレイトス)。6と28はその約数の和がそれ自身に等しい完全数であり、その背番号を落合と江夏がつけていたことは象徴的であるということを考えるのも、楽しい遊びだ。遊びは祝祭ではなく日常の一部であり、日常が機能するには欠かせないものだ。日常への憎悪はルサンチマンの表出である。超人は究極の「ホモ・ルーデンス」、すなわち「ホモ・リーデンス」であろう。それでは、松坂大輔は?

 ホイジンガがこの著作の中で批判している現代スポーツの問題点は、今日においても、まったく改善されていない。これは、プロ・スポーツだけでなく、IOCならびに国際陸連、FIFA、そのほかのアマ・スポーツの国際団体や広告代理店とスポンサー企業との癒着による裏金づくりの動きが常識化していることを考慮すれば、納得のいくところである。ここまでの論点から、審美主義が批判されなければならないことは明白であるが、そのエステティシャンとアスレティシャンは同じ根を持っている。連中はファシスト、スターリニスト、全体主義者である。二〇世紀を代表する最大のスポーツ・イベントは、両者が仲むつまじく手と手をとりあって行ったナチ・オリンピックである。結局、反省などされず、いまだに、あれを「平和の祭典」と称して繰り返している。どんなに腐敗していても、パルテノン以上のあまりに優美なシンメトリーの装飾を、良識ある人を「奴らは最も古代ギリシアを冒涜している」と呆れさせるほどのバランスはとっていなければならないので、自らのためにのみ必要としているのである。

 長嶋の遊びは真実である。しかし、これは先にわれわれが提示した「大いなる虚」と矛盾しない。虚は大いなる虚と積極的になろうとすることによって、力の意味において、真実だからである。ゴルフの「パッティング・イズ・リッスン」をもじって、長嶋は「バッティング・イズ・リッスン」と言い、耳あてつきのヘルメットを被ろうとしなかった。あまり知られていない話だが、長嶋は、われわれと同様、眼がよくない。メディアの前以外では眼鏡をかけている。長嶋は、そのため、老若男女を問わず、体に触れる。特に、長嶋は、われわれと同じように、胸とお尻が大好きである。この触覚という感触が抽象的な長嶋の力の具体性を意味している。長嶋は抽象性と具体性が混在している。長嶋はすべての感覚を、第六感を含めて、動員したのである。ニーチェも視力が弱かった。近代では、眼というものが偏重されている。眼の偏重は真実への盲点をもたらした。真実は具体性と抽象性の融合である。古代ギリシアでは、具体性を手放さないために、見ること以上に触れることが大切だった。遊びは具体的である。人間はどうしても眼というものに極端に頼ってしまう。実在はしていないが、ホメーロスは盲目だったと伝えられている。真実を知りすぎたものは視力を奪われてしまうのだ。神が嫉妬してしまうからである。

 キリスト教徒の青田“ブケノファールス”、あるいは“塩原多助”昇は、長嶋が監督に復帰したとき、「長嶋茂雄とは一つの“運命”なのだ。プロ野球そのものの存亡が問われる重大な危機に、プロ野球全体が、この男をもう一度呼び戻したのだ」と言ったが、立教大学経済学部経営学科を卒業しつつ、リック・クルーガーが『聖書』を読んでいた姿に、怒りをあらわにした長嶋は、ニーチェの『この人を見よ』を引用しながら、「なぜ私は一個の運命であるのか」という理由について次のように答えるだろう。

 わたしはわたしの運命を知っている。いつかわたしの名に、ある巨大なことへの思い出が結びつけられるであろう−−かつて地上に例をみなかったほどの危機、最深処における良心の葛藤、それまで信じられ、求められ、神聖化されてきた一切のものを粉砕すべく呼び出された一つの決定への思い出が。わたしは人間ではない。私はダイナマイトだ。−−だがそれにもかかわらず、わたしの中には、宗教の開祖めいた要素はみじんもない−−

 ……わたしは聖者になりたくない、なるなら道化の方がましだ……おそらくわたしは一個の道化なのだ……だが、それにもかかわらず、あるいはむしろ「それだからこそ」−−なぜなら、いままで聖者以上に嘘でかたまったものはなかったのだから−−わたしの語るところのものは真理なのだ−−しかし、わたしの真理は恐ろしい。なぜならこれまで真理と呼ばれてきたものは嘘なのだから。−−一切の価値の価値転換、これが、人類の最高の自覚という行為をあらわすためのわたしの命名である。

 わたしは不可避的にまた宿命を担った人間である。なぜというに、真理が数千年にわたる虚偽と戦闘をはじめる以上、われわれはさまざまの激動に出会わざるをえないであろうから。

 この道徳の真相を説き明かす者は、一個のやむにやまれぬ力、一個の運命である−−彼は人類の歴史をまっ二つに断ち切る。すなわち人は彼以前に生きるか、彼以後に生きるかのどちらかだ。……真理の稲妻は、まさに、これまで最高の座を占めていたものを打ったのだ。それによって何が破壊されたか、それがわかる者は、そもそもまた何か自分の手中に残っているものがあるかどうかを、よく目をとめて見るがよい。

 −−わたしの言うことがおわかりだろうか?−−十字架にかけられた者 対 ディオニュソス……

 要するに、一つの力、一つの永遠である長嶋がわれわれに教えたことによるならば、「長嶋茂雄」などどこにも存在しない。長嶋は一つの生成である。長嶋がONについて語る際、王自身を称えるのではなく、ONの関係を賞賛するように、彼は力への意志によってすべてを解釈する。長嶋は人の名前も間違えるが、それこそが彼の解釈の力なのである。ちょっとしたジョークだ。長嶋とは誰かという問いそのものを、プロ入り直後、ホテルにチェックインする際、書類の職業欄に「長嶋茂雄」と記したように、長嶋は成立できないようにしているのだから。長嶋は問いではない。エピソードだ。長嶋は、むしろ、今ここを生きている自分自身に向きあって、それを完全に肯定する何ものかなのである。長嶋といかなる関係を結ぶことこそ重要だ。青田も長嶋を発見した人物である。彼もそれにより最大限の経験をしたことは間違いない。長嶋からいろいろな意味を読みとるのはかまわないが、長嶋に頼ることなく、自分自身として生きることこそ望ましいのだ。

 発狂した年に、ニーチェは次のような書簡を書き送っている。

アリアードネ王女、わが恋人へ

 私が人間であるということは、一つの偏見です。しかし私はすでにしばしば人間どものあいだで生きてきました。そして人間の体験することのできる最低のものから最高のものまですべてを知っています。私はイン土人のあいだでは仏陀で、ギリシアではディオニュソスでした、−−アレクサンダーとシーザーは私の化身で、同じものでは詩人のシェークスピア、ベーコン卿。最後にはなお私はヴォルテールであったし、ナポレオンであったのです。多分リヒャルト・ヴァーグナーでも……しかし今度は、勝利を収めたディオニュソスでやってきて、大地を祝いの日にするでしょう……時間は存分にはないでしょう……私のいることを天空は喜ぶことでしょう……私はまた十字架にかかってしまったのだ……

(一八八九年一月三日コージマ・ヴァーグナー宛書簡)

 当然かもしれませんが、私はフィガロとは割合親しい関係にあります。私がどれほどお人好しでいられるものか、ご理解いただくために、私の駄洒落の初めの二つをお聞かせしましょう。プラドーの事件を余り重大に考えないでください。私はプラドーであり、また父プラドーでもあります。あえて申せばレセップスでもあります。−−私はわが愛するパリジャンに、ある新しい概念を与えようと思いました、−−つまり、端正な犯罪人という概念をです。私はまたシャンビージュ−−つまり、端正な犯罪人でもあります。第二の駄洒落。私は不滅なる者たちに挨拶を送ります。ドーテー氏はアカデミー・フランセーズの会員です。

Astu

 私の謙虚さを圧迫し、また不愉快でもあることは、結局、私が歴史のなかのあらゆる名前であるということです。

 私はどこへいくにも学生上着を着て、あちこちで誰彼の区別なく肩をたたいては、こういいます、−−俺たちは満足しているのか? 俺は神だ、俺はこんなカリカチュアをしてしまったのだ……と。

 明日、息子のウンベルトが可愛いマルゲリータを連れてやってきます。私もここでシャツ一枚になって歓迎してやります。

 コージマ夫人……アリアードネ……のために残された物がときどき魔法にかけられます。

 私はカイバスを鎖につながせてしまいました。私も去年ドイツの医者たちにひどく長ったらしいやり方で十字架にかけられました。ヴィルヘルム・ビスマルクとあらゆる反ユダヤ主義者は罷免されよ!

 バーゼルの人たちから尊敬を受けている私をみくびることもないこの手紙を、貴兄は利用できます−−

(一八八九年一月六日ヤーコプ・ブルクハルト宛書簡)

 長嶋とは、今ここに生きるわれわれにとっての自分自身を代理するものだ。草野進が、フィールドに彼の姿の影さえ認められない状況で、「ナガシマー」という叫び声を耳にしたことが二度もあると報告しているように、「長嶋茂雄」は「歴史のなかのあらゆる名前である」。それは単独的な固有名詞を取り戻す試みである。大衆の時代では、固有名詞は、メディアによって、デリバリーされている。そのため、偽の固有名詞はすぐに消滅してしまうが、真の固有名詞は、むしろ、反復され、増幅する。記憶の中にも、密かに、それは増殖している。そして、長嶋を忘れたとき、あの問いが回帰してくる。その問いに対して、われわれは映画『フィールド・オブ・ドリームス』のあの言葉を思い出せばよいのだ。"If you build it, he will come."われわれは、永遠に、「歴史のなかのあらゆる名前である」長嶋を使い捨てることはしない。長嶋茂雄は永遠に流通し続ける力なのである。「変化する者だけがあくまで私と親近である」(ニーチェ)。

 長嶋茂雄−−alias 力への意志、永遠回帰、あるいは生成の無垢……

〈了〉

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